「あたしおかあさんだから」という歌の歌詞から、子育てに関するいろいろな体験談や意見が交わされるようになりました。
まずは、歌詞の全文をあらためて。それから、ここまでの経過をまとめてみます。
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「あたしおかあさんだから」歌詞の全文
作詞について
私は以前、音楽の方をしていたので、子供を教えた間は子供の歌は毎日のように歌ったし、作詞家さんと組んで作曲した曲もネットにアップしている。
作詞は案外誰もできるように見えて、それはそれでいろいろ約束事があり、慣れている人でないと存外難しい。
字になっていないものは「ない」と同じ
文章の中で、文字として登場したものは、「在る」のだが、字になっていないものは「ない」ことになる。
写真に似ていて、写っていないものは見えない。それゆえ適切な取捨選択が必要になる。
子どもの姿はどこに?
「あたしおかあさんだから」は、それに似ていて、子供の姿は見えてこない。
だとしたら、このお母さんはなんて孤独なのだろう。
自己犠牲というところが問題になっているようなのだが、内容を見てみると、実は「あたし」しか出てこない。
子供については「あなたに会えたから」のただ一文。
その「あなた」についての描写が何もないので、実体のない「あなた」では、いかにも弱く、母の欲望を補って余りあるものにはならないだろう。
「あたし」と「あなた」
しかも、「あたし」はきわめて口語的な言葉であるのに対して、幼い子供を「あなた」と呼ぶことは実際にはあまりない、あるいはほとんどない。
なので、ますます実在性が薄い。
叙述のポイントは?
ヒールを履いたり、ライブに行ったり、服を買ったりする具体に対して、「おかあさんになれてよかった」は極めて抽象的でわかりづらい。
どうしても、歌の主題が、お母さん以前のアイデンティティーの消失に傾いてしまう。
並べられているものは、すべて失われたものである。
羅列の挙句、それでいいというから、自己犠牲的という帰結になってしまう。
解決策は?
どうしたらいいか・・・うーん、作曲家の方は、メロ先でない限り歌詞は変えられないので、他で工夫するしかなく、サビの「あなたに会えたから」の部分を映像と音楽で盛り上げるという方法。
このサビのバックに、赤ちゃんの画像を、切り替えながらたくさん映すとか。歌のお兄さんの顔ではなくて。
母にこたえるわが子の笑顔をもってすれば、ヒールもライブも何のそのなのですよ!
「あたしおかあさんだから」に対する意見
23日の新聞投稿欄に「あたしおかあさんだから」の歌詞についての投書があり、興味深く読みました。タイトルは「耐える育児、批判されるべきは」というもの。
耐える育児、批判されるべきは
「かあさんは 夜なべをして 手袋編んでくれた」(窪田聡作詞) 私が思い出す母の歌はこれだ。母はいろいろなことを我慢して私を育ててくれた。ぜいたくをした姿を見たことがない。だから「自分は母から大切にされている」という自己肯定感を自然に得ることが出来たような気がする。
先日、「母親になって自分より子どもを優先するようになった」という内容の歌が、「自己犠牲を賛美している」などとネットで酷評されたそうだ。これを知って疑問に思った。怒りの矛先は、果たしてそれで合っているのか?
母親だけが育児をしなければならない背景には、父親の長時間労働や、待機児童問題などが隠れているはずだ。だとしたら、企業風土や、国の政治の問題ではないだろうか。どうして、その大きな問題に怒らないのか?
育児に我慢はつきものだ。親に我慢してもらえなくて、育児放棄や、虐待されている子供が存在することを忘れてはならない。一番大切なのは「子供がまっすぐに育つ」こと。育児の責任を女性だけに押し付けて逃げている男性の姿が、今回の騒動の裏に垣間見えるような気がしてならない。
この投書を読むと、お母さん本人が「・・・を我慢した」ではなくて、子供の方が「お母さんは何々してくれた」という歌詞だったら、共感を呼んだのかなという気がしないでもないですね。
フランスの夫婦と子供
以前に読んだことを思い出しました。フランス人の旦那さんと結婚してフランスに住んでいる方のライフスタイルについてです。
フランスの育児、というか子供との距離の取り方なのだけれども、フランスでは夫婦が単位で、子供はそれとは別という考え方になるそうです。
子供が第一の日本
小さいころから部屋も別。日本のように「川の字で寝る」というようなシーンもない。
子供をシッターに預けて、夫婦でコンサートや食事など夜でも出かける---
どこの国でも子育ての手間は同じなのだろうけれども、考え方の点で、子供が第一であるというプライオリティーの意識が薄い気がします。
上の方は夫の家族も近くに住んでいるのだけれども、赤ちゃんを置いて夫婦二人で出かけるのか、と批判されるようなこともまったくないそうです。
夫婦は、子供とはまったく別の単位であるらしく、育児のための時間の制限などは避けられないまでも、可能な限り子供ができる前と同じように暮らしているようです。
「母」イメージの違い
「あたしおかあさんだから」では、作詞の中の「あたし」の意識が、子供第一になっている。
いえ、フランスのお母さんだってそれはそうだと思います。
しかし、多分フランスのお母さんは本人の意識が違う。
フランスのママンは「あたしはママンだから」などと言い聞かせるようなことは、自分にも周りにもしないのではないか。
そもそも日本では、子育て期間中に関わらず、「母」というアイデンティティーにこだわり過ぎる心性があるのではないでしょうか。
「私」を阻害する「母」のアイデンティティー
その結果、一つの家事仕事として育児があるのではなくて、「母」以前の「私」というものを阻害するような精神性がある。
それを裏返しに述べている「あたしおかあさんだから」に対してのリアクションは、そこから起こっているような気がします。
母という家事負担ではなくて、そのような心性を押しつけられている、と感じることそのものに問題があるのではないでしょうか。
「あたしおかあさんだから」というタイトルは、自らの声である前に、外から取り入れられた「声」なのです。
すべての人がそうなるわけではない
それから、子供を持っている人が必ずしも、上のような心境になるのかというのはそうではないように思います。
しかもそれは女性に特化した場合のことで、男性にはないことのように思えるのです。
育児中の女性と同じように、配偶者の死別や離婚で男性が育児の責任を負う場合もあります。
しかし、同様の育児の手間や責任はあっても、何か、女性が抱えている心性の根底とは同じようにはならない気がするのです。
3度結婚した私の母の場合
私の周囲の人についていうと、私の母はその年代にはめずらしくずっと仕事をしていて、結婚は3回しました。
離婚するときにも、子供のことはたいしてかまわなかったし、再婚先には、母の方が実質収入は高かったのに、私と弟の他に、相手方には子供が3人いましたが、それもたいして気にしなかった。
ほめるべきかどうかはわかりませんが、「母」というアイデンティティーに縛られるということはまったくなかった。
仕事が大変だとかは言ったことがありますが、子育てが大変だなどとは言うのは聞いたことがありませんし、再婚するのに子供がじゃまだと思ったこともなさそうです。
他人の子供を取り混ぜて、子供が5人いようが気にしないで生きる人もいるということです。
要は子供に縛られるかどうかは、本人の意識次第だとも言えそうです。
一人で子育てした私の夫の場合
もう一つは、私の現事実婚の夫の場合です。
前妻と離婚した夫は、子供が中学生の時から一人でその子を育てていまして、勤めながらの子育てはたいへんだったと思います。
ただ、そこで「俺お父さんだから」的なスタンスにはならなかったようです。
私の母とは対照的に、それ以前に子供が第一で、自分とお父さんの間に、何の隔たりもないですね。
まあ言ってみれば、「我慢」という意識のなさという点では、私の母とも変わらないわけです。
ただ、子供のための用事と家事をもくもくとしたという感じでした。
我慢の意識があるかないかはひとそれぞれ
母の場合は好き勝手に生きたようでも、やはり変化の多い人生は大変でしたし、夫の場合も他の男性と比べたら家事育児の負担は圧倒的にたいへんだったのは言うまでもありません。
しかし、それは「お母さんだから」「お父さんだから」という意識とイコールではなく、彼らは我慢とは無縁でした。
とすると、「私」がどんな「私」であるかは、一概に子供がいるとか、育児にだけの問題ばかりではないような気がします。
「お父さん」にも同様にある縛りの心性
一方、「お父さんだから」についていうと、私たちの年代のお父さんは、育児以上に、家計負担の責任が今以上に格段に大きかったと思います。
「家長」と呼ばれて、経済面の負担を一手に引き受けていたのが一昔前までのお父さんの姿です。
今はそれほどではなくても、やはり尾を引いてはいるでしょう。
育児に参加しない男性がいるとすると、そのあたりに根がありそうです。良くも悪くも、自ら責任を感じる対照が違うのではないでしょうか。
育児に無関心なのではなくて、「お父さん」というプレッシャーを感じる部分が違うのです。
これからはむしろ、「おかあさんだから」ではなくて、「お父さんだから」と意識を促すことも必要になってくるのかもしれません。
しかし、その内容は今までのような家長的な「お父さんだから」とは意味が全く違ってくることでしょう。
オーダーメイドの価値観
あらためていうと、「お父さんだから」「お母さんだから」の内容は、個人、そして社会、その人の置かれた環境や社会情勢の移り変わりによって、上のように流動的であるということです。
それはそれぞれの人の意識によって、変化し、また固定させることもできます。
この歌詞に憤りを感じる人ほど、むしろオーダーメイドの価値観に自分を合わせてしまっていたのではないでしょうか。
「あたしおかあさんだから」は外からの声に自らを合わせてしまった人の声なのです。
「お母さんだから」「お父さんだから」が、それぞれある特殊な心性を人に負わせる結果、それぞれのアイデンティティーを規定してしまうということ。
それを、上の歌の歌詞をきっかけとして、あらためて考えてみようではありませんか。
歌人の俵万智さん他のコメント
話題の「あたしおかあさんだから」に、俵万智さん他がコメントしたとの女性セブンの記事。
俵さんといえば、「サラダ記念日」の歌人で、男のお子さんのシングルマザーとして活躍しておられます。
おかあさん騒動に俵万智「SNS普及も子育て孤立化を後押し」
夫婦・家族問題評論家の池内ひろ美さんのコメント
おしゃれで華やかな母親も、歌詞に出てくる世界を地で行く専業主婦も、ともに子育てが孤独なんです。昔の3世代同居や大家族の時代には、地域社会で子育てを手伝ってもらうのが当たり前だった。でも、今は都会の希薄な人間関係のもと、一家の中だけで子供を育てようとする。親にけた違いのストレスがかかっているわけです。
頼る先もなく、ひとりで子育てをする母親たちの姿を、あの歌詞は是とした。だから女性たちから反発が起きたのです。表層ではなく、魂のレベルで現代の女性は孤独です。その痛みに僅かにでも寄り添っていれば、批判も少なかったのではないでしょうか」(池内さん)
俵万智さんのコメント
俵万智さんは、意外なことにSNSの影響を挙げています。
「母親たちの孤独化が進む一方でファッション誌では「子育て中でもおしゃれなママ」が喧伝され、SNSにはかわいいわが子の写真や子供を預けて夫婦で行った素敵なレストランの写真があふれかえっている」
そして、
本来は仲間を増やすツールのはずですが、子育てに限らず人生の楽しそうな部分やおしゃれな部分だけがSNSにアップされ、それを見た子育て中の母親が“私にはできない”と思い込んでしまったり。子育てがひとりではできないのは当たり前なのに、SOSを発しにくい状況に見えますね
狂言プロデューサーの和泉節子さんのコメント
男親にはない喜びを感じられるのが母親です。赤ちゃんが1年近くお腹にいるのだから、体形が変わるのは当たり前。おしゃれをしたいなら、子供を育て上げてからもう一回ゼロ地点から始めればいい。髪の毛を振り乱してでも一生懸命に子育てする。そういうお母さんはきれいです
お母さんになり切ってしまう、そういうご助言ですね。
確かに育児は平等でも、文字通り身をもって、出産を体験できるのは女性だけです。
ひとりではできない子育て 母も一人では生きられない
俵さんは特に、震災後に、宮崎市に移住されて、全く知らない新しい環境でお子さんを育てられた、そういう経験からも
子供がいない頃は、“ひとりで生きて行く力をつけよう”と考えていたけれど、子育てには必ず人の手を借りなければ乗り越えられない局面がやってくる。そういった経験を経て、“人と助け合う関係を築き、助け合うことを喜べることこそ、生きる力だ”と考えるようになりました。
と締めくくっています。
こうなると子育てというよりも、お母さんが、自分がどういう生き方をしたいか、ということがポイントになるのかもしれません。
皆さんも上の意見を参考にしてみてくださいね。